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【ゲド戦記】原作と映画の違いは?面白いのに改悪された理由とネットの意見も

映画

2006年に公開された宮崎吾朗初監督映画「ゲド戦記」。

有名なファンタジー原作とはあまりに違う展開に、ファンは阿鼻叫喚となりました。

映画と原作の違うところは?
映画はクソで原作は面白い?

ネットの声もまとめてみました!
(作品のネタバレを含んで作成しています。ご注意ください)

【ゲド戦記】原作と映画の違いは?

原作はファンタジー文学の名作『ゲド戦記』。

ル=グウィンによるシリーズで、1968年~2001年にかけて出版されました。

英語圏におけるファンタジー作品の古典として、あの『指輪物語』や『オズの魔法使い』と並び称されています。

人気作品『ハリーポッター』や『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作『氷と炎の歌』などの幻想小説に与えた影響も大きいとされています。

ところが『ゲド戦記』原作者は、このアニメ映画は「意に反する内容にされていた」と発言しており、ル=グウィンにとっては納得のいかない出来だったようです。

いったいどこが改変(改悪?)されてしまったのでしょうか?

アレンは父親を殺さない

主人公アレンが父親である国王を殺すという衝撃のプロローグ。

しかし、これはジブリのオリジナルです。

崩れた世界の均衡を象徴する出来事として加えられましたが、あまりに唐突なエピソードにびっくりする視聴者も多かったようです。

しかも、「何故父親を殺してしまったのか」は最後までくわしくは明かされません。

「世界の均衡が崩れている」「人々の頭が変になっている」という災いの力(クモの魔法)のせいらしいのですが…。

作中ではあっさり流されています。

父王は賢王と呼ばれており、民のことをよく考え国を襲う災いを取り除こうとしていました。

しかしアレンが罪の意識に苦しむという描写があまりないため、「なんで殺した?」「意味がわからない」とモヤモヤすることに。

また国王を殺したら、普通は国から追手がかかるなり、エンラッド王国が混乱して情勢に影響が出たりすると思うのですが、それもありません。

物語ラスト、アレンはハイタカとふたたび旅に出ます。

…国はほっといていいの???
(もしかしたらエンラッドに帰るのかもしれませんが、明言されていません)

父親を殺した犯人なので、王国に戻ったらえらいことになると思いますが…。

原作にはないエピソードとすれば、不自然さも納得ですね。

ちなみに原作のアレンは父のあとを継いで王になりますが、映画版はどうなるのでしょうか(モヤモヤ)。

アレンの影は出て来ない

物語がすすむにつれ、アレンが苦しめられる自分の「影」。

しかしこれも原作3巻(映画のベース)には出てきません。

原作1巻の『影の物語』に登場するハイタカの影(心の闇)をアレンの「影」として採用したようです。

そして影の意味も、原作とは正反対にされています。

原作1巻では、若きハイタカの影(心の闇)を憎しみや傲慢として表現していました。

若さゆえの野心や闘志、がむしゃらな向上心を持ったハイタカにも「影」があったのです。

光を受けたときに感じる、受け入れがたいさまざまな「心の傷」「良心の呵責」「弱い心」などが「影」となり、無自覚のまま心に積もっていきます。

やがて蓄積された心の闇が召喚魔法によって具現化し、実体につきまとい、おびやかす存在となってしまいました。

少年のゲドは次第に追い詰められていきますが、影から逃げることをやめ、正面から向き合います。

そして影もまた自分の一部として受け入れたときに、全き人となったのです。

この流れは、ジブリのアレンとよく似ていますね。

映画では、アレンの「影」はもともと彼の「光」の部分であり、クモによって「心の光の部分」が切り離され、分かれた「体」を追う「影」になってしまったという設定にされています。

…そんな説明ありましたかね?w

「影(もと光)」は心の闇に支配されたアレンを追いかけて元に戻ろうとするため、ストーカーのようになってしまったようです。

また「光」を失ったアレンは、ことあるごとに「命などいるか…」と狂気の表情で戦ったり、「分からないんだ、どうしてあんなことをしてしまったのか…」と苦悩したり、「いつも不安で自信がないんだ。なのにときどき自分では抑えられないほど狂暴になる。自分の中にもう一人の自分がいるみたいなんだ」と不安がるなど、「中二病」まっさかり。

宮崎吾朗監督が原作3巻のアレンを主人公にしたのは、「原作1巻の少年ゲドのような子供は今はいないのではないか?」「野心や向上心があり、闘志を剥き出しにするような少年のゲドは、いまリアルには感じられない」とのことだったそうですが、アレンみたいな少年もあんまりいない!(笑)

物語終盤、「影アレン」はテルーに真の名(まことのな)を告げ、テルーの言葉によって、闇に支配されていたアレンの心にはふたたび「光」が戻りました。

めでたしめでたしではありますが、モヤモヤも残ります。

また原作者は、このアレンの分裂(?)に対し、「理由がはっきりしていない」と批判しているようです。

確かに、初見では「クモのせい」だとは読み取れませんよね。

アレンがゲドに会いに行く

映画では父王を殺して国を出るアレン。

ハイタカ(ゲド)に会ったのは偶然で、ハイタカの旅に同行するという展開です。

原作ではエンラッド王国や諸国の異常を知らせるよう父王に命じられ、ロークの大賢人であるハイタカ(ゲド)に会いに行き、二人で旅に出るという設定です。

原作の方が自然ですね。

テルーの描写

映画でのテルーはやけどの跡があるものの、ジブリヒロインという可愛らしいデザインで年齢もアレンと同年代の少女とされています(正体が竜なので、正確な年齢は不明)。

原作4巻で登場するテルーは5~6歳の幼女(!)。

映画では違和感のある「あたしをいじめに来たのか?」「命を大事にしないやつは大嫌いだ!」などのセリフも、幼稚園児ぐらいなら納得ですね。

やけどの跡も原作では右半身にあり、「顔の半分がケロイド化して目がつぶれている」「手が溶けてかぎ爪のようになっている」などかなりグロい様子。

これは両親に焼き殺されかけたことが原因で、のども炎でつぶされており、映画のように「テルーの唄」を歌うことはできないようです(かわいそう…)。

原作4巻以降、ハイタカ(ゲド)とテナーは結婚し、テルーはその養女となります。

映画でテルーがハイタカを慕っていたのも、これをふまえていたのかもしれませんね。

物語の舞台

映画の舞台は港町ホート・タウンとその周辺、テナーの家やクモの居城が中心です。

原作3巻ではハイタカ(ゲド)とアレンは世界のすみずみまで旅をします。

辺境の島や死後の世界まで、アースシーを縦横に横断していくので、本来はもっと広大な世界のようです。

登場人物の肌の色

映画ではハイタカ(ゲド)の肌の色がやや褐色に描かれているほかは、アレンやテルーの肌の色は日本のアニメによくある色になっています。

原作では肌の色が赤い者や浅黒い者が大半とされ、ほとんどの人間が有色人種です。

原作では、肌の色が白い人間は東海域のカルガド帝国の者だけ。

カルガド帝国は魔法を忌み嫌い、アチュアンの地にまつられた太古の兄弟神を信仰しています。

またカルガド人は船や鎧をつくる技術に長け、野蛮で戦や略奪を好むとされています。

アチュアンでは、テナーがかつて名前を奪われ巫女としてつかえていました。

テナーの肌の色はやや白く見えるので、映画でもこの設定が使われているようです。

原作者は登場人物の肌の表現にとくにこだわりを持ち、小説の表紙の人物デザインについて出版社とあらそったこともあるほど。

「肌の色が濃い=邪悪」と結びつけられていた昔の価値観に批判的な立場をとっているため、物語をこうした設定にしたのかもしれません。

物語の結末

映画の結末は、すべての黒幕であるクモを倒す(死亡)することで解決しました。

原作は悪者を力によって倒すことで解決を図っていません。

映画では、「世界の均衡が崩れている」ということが繰り返し言われており、そのせいで竜が共食いをしたり、干ばつや疫病が流行ったりという災いが起きていると考えられています。

また人々がハジア(麻薬のようなもの)を好むようになり、「頭がおかしくなっている」こと、魔法使いたちが魔法を使えなくなっていることも描写されています。

その原因は、クモが「生死両界の扉を開けようとしているから」。

ハイタカはそのことに気づき、阻止するために旅していたようです。

…ということは映画のパンフレットに書いてあるのですが、初見だと分かりません!

またクモが死亡した後も世界が元に戻った描写はなく、共食いをしていた竜が仲良く空を飛ぶ姿が描かれるだけで、ふんわりした終わりになっています。

その後は視聴者の想像にゆだねるというラストなのかもしれませんが、とりあえずエンラッド王国は大変なので、アレンは国に戻った方が良さそうです。

…戻らない方がいいのかな?

原作が面白いのに改悪された理由

「ゲド戦記」3巻を原作、宮崎駿さんの絵物語「シュナの旅」を原案としているから。

今の時代に合うような設定に作り変えた。

「ゲド戦記」の原作は全6巻ですが、映画化するにあたり、第1巻よりも第3巻をベースにすることが決まります。

それは宮崎吾朗監督が、1巻の少年のゲドを主人公にするのが「今の時代に合わない」と判断したから。

原作の主役はタイトル通り「ゲド」ですが、物語によっては中心人物が違うんですね。

吾朗監督がもっとも感動したのは4巻(テルー登場巻)と外伝だったため、壮年期のゲドとテルー、アレンの物語の方が、より視聴者に受け入れられると考えたのかもしれません。

映画は3巻がベースで、さらに主役をアレンにしてしまったために大きく改変が必要になりました。

また「シュナの旅」は原案としてクレジットされており、プロットや部分的な絵作りにおいてベースとされています。

「シュナの旅」は1983年に発表された宮崎駿さんの描きおろしで、原作「ゲド戦記」の影響が強く感じられる作品です。

物語序盤で少年が悪者につかまった少女を助け、ラストでは心の闇につかまった少年が少女の助けで光を取り戻すという内容は、まさに「ゲド戦記」(映画)。

また「ナウシカ」(漫画版)や「ラピュタ」、「もののけ姫」「ハウル」など、歴代のジブリ作品にもこの展開が多いことが分かりますね。

ジブリの王道展開として、ある意味安心して楽しめるのですが…。

この改変は原作者には受け入れられなかったようで、「絵は美しいが急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」(やっぱり?)「登場人物の行動がともなわないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などとさんざん。

とくにアレンが父王を殺害することについては、「動機がなく気まぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と酷評。

正論すぎてぐうの音も出ないw

視聴者が感じた違和感は原作者も感じていたようですね。

国内の映画評論家たちからも手厳しい評価を受け、映画雑誌「映画芸術」では2006年ワーストテンの第一位になっています^^;

【ゲド戦記】原作は面白いというネットの意見

厳しい意見の多いジブリ版「ゲド戦記」ですが、原作を知るファンは「原作読んで!」「面白いから!」の声が多いようです。

など、原作をおすすめするファンが多く、ファンタジーのベストセラーとして長く愛されている作品なのが伝わってきますね。

現在読まれているさまざまなファンタジー作品の基礎ともいえる世界観、剣や魔法が活躍する物語はいつ読んでもワクワクしますよね。

映画版に関しては、ジブリブランドで映画化なら、もっとクオリティの高い作品を期待していたファンも多いようです。

タイトルが「ゲド」なのに、主役はアレンでゲドはあまり活躍しないですよね…。

しかも「ハイタカ」と呼ばれてるからますます「???」となりましたw

『真の名』の説明も作中できちんと欲しかったですね。

まとめ

「ゲド戦記」は有名なファンタジー小説だが、2006年に公開された宮崎吾朗初監督映画版は原作とは違う展開になっていてわかりにくいとの声が出た。

「ゲド戦記」の映画で原作と違うところは、アレンは父親を殺さない・アレンの影は出て来ない・アレンがゲドに会いに行く・テルーの描写・物語の舞台・登場人物の肌の色・物語の結末など。

こんなに原作から改変されてしまった理由は、「ゲド戦記」3巻を原作、宮崎駿さんの絵物語「シュナの旅」を原案としているから。

また、今の時代に合うような設定に作り変えたから。

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